教える≠育てる

  •  この頃の教育は、「教える」ことばかりに偏って「育てる」という点は全く欠落している。本を読ませるにしても、何かを教えよう、教訓にしようとばかり考えている。
    そんな意図が見え見えでは、本来は面白い本も面白いと感じるはずがない。
    育てる(育つ)には時間が掛かる。それを効率一辺倒に慣らされた大人が待てないために、つい自分自身で考えたりしだすと「それはこうするんだ」と教えてしまう。
    河合隼雄さんと毛利子来医師の対談で、毛利さんが「みんなしゃべることばかり、何かすることばかりを教えようとする」と言うと、河合さんは「何かちょこちょこやっていると、いかにも先生は熱心そうだけど、大体しなくてもいいことしてるんです。幼稚園の先生でも、素晴らしい先生はあまり動かないですね。その代わりよく見ておられるわけです。子どもが木に登ったりしても、どこまでは大丈夫ということが分かっているから」と応える。
     この問題も、結局は大人が見ていてハラハラ、ドキドキに耐えられなかったり、落ちたときの責任を考えて「やめなさい」とか言って下ろしてしまうにすぎない。
    子どものためと言っているけれども、結局は自分の心配のタネを増やさないため、つまり、自分のためなのである。

これが"身を挺して"伝えること

  •  ポーランドの孤児院長であり、教育医、著名な作家でもあるヤヌシュ・コルチャック先生は、「決して裏切らずともにあること、永遠にともにあること」を教育者としてのバックボーンとしていた。
    1942年、ユダヤ人問題の最終的解決計画のため絶滅収容所トレブリンカの森のガス室に向かって開かれたワルシャワ・ゲットーの扉。
    最後の朝、コルチャック先生は、何度も拒み続けてきた自分だけへの救命の手を再度拒否して、教え子二百人とともに家畜用貨車で出発し、帰らぬ人となる。
     この芝居の役を演じた加藤剛さんに、初めて学級を担当した若い小学校の女性教員の観客から、こういう言葉が投げかけられた。
    「先生、私は生徒とともに死ねるでしょうか?なんとなく楽して教師になったんです、私。こんな問いを自分に発するなんで、思ってもみませんでした・・・」
    共に死ねる二百人をイメージすることなど誰にも難しかろう。でも、共に生きる二百人ならばできなくもない。だからこそ、劇場の数百の客席の前に、毎夜わが身を晒す勇気がわいてくるのだと言う加藤さんの声を真摯に受け止めたい。